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NBAと契約した日本人選手一覧!知っておきたいアジア系選手も紹介!

NBAが開幕し、毎日充実して…

いません。

見たい試合がたくさんあるのに、ちょうど仕事が立て込む時期に突入し、全然見れず…。

週末にぶっ通しで見てやろうと思っているので、それまではNBA活動が全然充実してません!

デイムがやばいってのは見た!
悪い意味で!

そんないま、何よりも見たいのが八村選手と渡邊選手です。
日本人選手がせっかくリーグで存在感上げて頑張っているのに、ワシは一体何をしているんだと…。

私は日本人ですから、どうしたってチーム関係なく日本人を応援したくなるのは当然です。

だって、これが当たり前じゃないんです。

NBAに日本人が!
しかも2人も!

もう、毎日が歴史的な瞬間です。

もちろん、過去にもNBAという高い壁に挑戦し、見事契約を勝ち取った日本人選手が何人もいます。
彼らへのリスペクトがなくては、このブログも大成しませんね!

そこで今回は、過去の歴史も含め、NBAチームから契約を勝ち取った日本人選手を紹介していきます。

最後には、特に押さえておきたいアジア系選手も紹介しますね。

日本人選手とは

この記事ででいう「日本人」の定義を、先に明確にしておきます。この記事では、日本国籍を持つバスケットボール選手を「日本人選手」と呼びます。
国籍の取得時期は関係ありません。
現時点で日本国籍を所有していれば、「日本人選手」です。

歴代の日本人NBA選手一覧

歴代の日本人選手を見ていきます。

ここでは、契約年(複数回契約の場合は初契約)の古い順に紹介していきます。

【1998年】桜木ジェイアール

2007年に日本国籍を取得した桜木ジェイアール選手は、1998年にバンクーバー・グリズリーズ(現メンフィス・グリズリーズ)から全体56位(2巡目27位)で指名を受け、NBA入りしました。

当時2m3cm、102kgだった桜木選手は、グリズリーズで30試合に出場し、通算3.2得点、1.6得点、0.7アシストを記録しました。
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NBA以降はフランスなどでプレイしたのち、2001年にアイシン(現シーホース三河)に入団します。

その後の活躍はご存知の通りですね!

初年度から平均25.2得点、8.5アシストを記録し、チームを全日本総合バスケットボール選手権大会(オールジャパン)4連覇に導きました。

日本ではパワーフォワードからセンターを担うことが多い桜木選手ですが、NBAではスモールフォワードだったこともあり、広い視野からのアシストも得意です。

2007年にはアジア選手権の日本代表として戦うなど、いまなお日本国民の記憶に残るプレイヤーですね!

 【2004年】田臥勇太

日本人選手のNBA挑戦の第一歩を切り開いたパイオニアですね。
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NBAの開幕ロスターに残ったという報道を聞いたとき、私はもうほんとに…感動しました。

当時は子どもでしたし、家にネット回線もなく、ただテレビのニュースやドキュメンタリーを見るばかりでした。

田臥選手はNBA挑戦のために、高校卒業後はブリガムヤング大学ハワイ校(BYU-H)に留学。
英語を話せなければ試合には出場出れないため、1年目は英語を習得しながらバスケの腕を磨きました。

大学を3年で中退すると、トヨタ自動車に所属。
1年後に再渡米し、2003年にはNBAのナゲッツとキャンプ契約を結びます。

惜しくもナゲッツの開幕ロスターには残れなかったものの、2004年にはサンズと契約。
シーズン開幕ロスターに残り、4試合に出場しました。

デビュー戦では7得点を記録し、日本国内だけでなく現地のファンも大興奮させるデビューとなりましたが、開幕から2ヵ月になろうかというタイミングで解雇されました。


田臥選手がNBAに実際に挑むまで、日本国内ではほとんど、どうやってNBA選手になればいいのかが明らかではありませんでした。

英語はどう学べばいい?

ドラフトにエントリーするには?

スカウトにはいつ・どうやってアピールする?

基本的な情報すら手探りな中、サンズと本契約まで辿り着いた田臥選手には本当に敬意しかありませんね。

日本バスケ界から世界に羽ばたく若者たちの、道標になったのです。

【2007年】ニック・ファジーカス

FIBA2019では日本代表としても活躍したニック・ファジーカス選手です!
日本での活躍っぷりは以下の記事で詳しく解説しましので、ぜひご覧ください!
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ファジーカス選手は2007年、2巡目4位(全体34位)でマーベリックスに指名されてNBA入りしました。
マブスでは4試合に出場し、平均1.0得点、0.8リバウンドを記録。

その後はクリッパーズにトレードされ、22試合に出場。
プレイタイムは平均11.8分で平均4.7得点、3.9リバウンドと数字を伸ばしましたが、解雇となりました。

来日したのは2012年。川崎ブレイブサンダースの前身である東芝と契約し、NBL初優勝を達成しました。

Bリーグでは得点王にも輝いた川崎の魂は、今シーズンかぎりで引退を表明しています。
ぜひ優秀の美を飾ってほしいですね!

【2018年】渡邊雄太

言わずと知れた、日本バスケ界の至宝です!
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2010年に入学した尽誠学園高校では1年生より先発選手として活躍し、全国高等学校バスケットボール選抜優勝大会を見事連覇します。

高校卒業後は田臥選手が切り開いたNBAへの道を辿るように、アメリカ留学を決意。
すぐに大学に行くことはせず、プレップスクール(大学準備校)に進みました。

2014年にはNCAA1部に所属するジョージ・ワシントン大学へと進学。
特に3年生以降はチームの主力として活躍し、4年生の頃にはチームキャプテンの1人にも選ばれました。

大学卒業後は、サマーリーグに参加し、のちにグリズリーズとツーウェイ契約を結びます。
2018年10月27日(日本時間28日)のサンズ戦で選手登録され、第4クオーターに出場。

田臥選手以来初めて、日本生まれの日本人選手がNBAのコートに立った瞬間となったのです…!

ツーウェイ契約って?

NBAと、NBA下部リーグ「Gリーグ」との双方で契約を結ぶこと。チームは育成選手と最大3名までツーウェイ契約を結ぶことが可能で、これにより育成選手を他球団に奪われないよう防衛する。
ツーウェイ契約は最大で2シーズンまで。契約終了後に選手は制限付きFAとなり、チームは通常契約を結ぶこともできる。

グリズリーズ以降のキャリアについても詳しく見ていきたいのですが、すごく長くなりそうなので、NBAデビューまでにとどめます。

詳しい掘り下げは、また別記事で書きますね!

【2019年】八村塁

こちらも、いうまでもないですね!

八村選手は2019年、日本生まれの日本人選手として初めてドラフト指名されました。
しかも1巡目9位という、大変高い指名順位です。
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まさしくエリートコースを歩んできた八村選手ですが、手放しで手に入れた結果などではありません。

八村選手がバスケットを始めたのは中学校から。
高校は名門・明成高校で、2年生の頃にはU-17ワールドカップで大会得点王を獲得して世界から注目されました。

たくさんのスカウトが届いた中、八村選手が選んだのはゴンザガ大学。
生徒数約7万5000人と小規模ながら、NCAAトーナメント常連の強豪校です。

2016年に渡米した頃、八村選手はほとんど英語が話せませんでした。
そのためゴンザガ大学では、英語力育成のための履修科目「ESL」を受講。

バスケに励むかたわらESLの授業に出席し、帰宅後はたくさんの宿題や家庭教師の授業をこなしました。

まさしく、目も眩むような努力の日々だったわけです。

ゴンザガ大学3年目、チームメイトとの意思疎通もまったく問題なくなった八村選手は、チームのエースとしてけん引。

NCAAではベスト8で敗退となりましたが、最も優れたスモールフォワードに与えられる「ジュリアス・アービング賞」を授賞し、その存在感を遺憾無く発揮したのです。

「NBAに進む準備ができた」と、八村選手は3年生を終えた時点でNBAドラフトへのエントリーを宣言。
見事、ウィザーズから全体9位指名を勝ち取りました!

現在はレイカーズで、レブロン・ジェイムスらとともに戦う日々。
昨シーズンのプレイオフでは効率の良いシュート選択や、相手のスター選手・ヨキッチの守備を任されるなど、ベンチ出場ながらなくてはならないピースとして活躍しましたね。

2023-2024シーズンも、さらなる飛躍が期待されます!

ツウなら知っておきたいアジア系選手

ここまで、NBAで契約を勝ち取った日本人NBA選手を見てきました。
最後に、日本人のNBAオタクとして知っておきたい「アジア系NBA選手」をご紹介しましょう!

【1947年】ワット・ミサカ

非白人選手として初めてNBA(当時BAA)でプレイしたミサカ氏については、バスケを愛する日本人なら誰もが知っておくべきでしょう。
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日系アメリカ人のミサカ氏がリーグ入りしたのは1947年のこと。
ニューヨーク・ニックスからドラフト指名されての入団でした。

1945年にジャッキー・ロビンソンが近代メジャーリーグ初の黒人選手として人種の壁を越えたことから、「バスケットボール界のジャッキー・ロビンソン」として愛される人物でもあります。

ミサカ氏がドラフト指名されてから3年後には、NBAで初めてドラフト指名される黒人選手が現れるなど、今日のグローバルなリーグへの第一歩を切り開いた選手だったんですね。

日系アメリカ人であるミサカ氏はユタ州出身。
ユタ州立大学バスケットボール部でNCAAトーナメントを制覇し、1947年にはNITトーナメントでも優勝しました。

そんなミサカ氏は2019年に逝去されています。
95歳で、ユタ州のソルトレイクシティで安らかに眠りにつかれたということでした。

偉大な功績に、ただ尊敬の念をいただくばかりですね。

【2001年】ワン・ジジー

アジアの選手でいえば、ワン・ジジーについても知っておくといいですね。
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強烈なインパクトを残した選手……ではないですが、まだまだ中国とアメリカの往来が不安定だった当時、国家間の情勢に振り回された苦労人です。

ジジーが全体36位(2巡目6位)でマーベリックスに指名されたのは、1999年のことでした。
マーベリックスは当時、ジジーのエージェントを通して事前に中国政府の了承を得てジジーを指名しましたが、指名後に交渉が難航してしまいます。

結局ジジーが実際にマーベリックスと合流できたのは、何と指名から2年後の2001年でした。

彼が合流した頃にはマーベリックスはシーズンを終える直前でしたが、平均8分の出場で平均6得点を記録し、かろうじて、NBAに通用することは証明できたところでシーズンを終えます。

ここからなんですよね…。
ジジーの問題は。

シーズンを終えたジジーは、中国政府から国際大会に出場するために中国に一旦戻るよう命令されていましたが、ジジーはこれを拒否。

中国政府とマーベリックスに何も告げず、ロサンゼルスに移動してしまいます。
結局、中国は軍人捜査官を2名米国に送り込み、ジジーを連れ戻そうとしますが、ジジーはすでにクリッパーズと契約。

その後はヒートにも移籍しながら、2005年までNBAでキャリアを過ごしたのです…。

ジジーもジジーで問題ですが、国際大会のために強制的に連れ戻そうとする中国もなかなか…。
ワールドカップでは八村選手がキャリア優先のため、なくなく代表出場を断念しましたが、こういう選手の選択ができなかった時代だということなのです。

国に翻弄された選手として、知っておくとよいかもしれませんね!

ちなみにジジーはその後、中国政府に直接謝罪。
2006年には中国代表メンバーとして、北京オリンピックでプレイしています。

和解できたようで、何よりです。

【2002年】ヤオ・ミン

アジアを代表するバスケットボールプレイヤーです。
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ドラフト指名されることだけでも偉業なのに、ヤオはなんと全体1位指名を獲得しました。
これはアジア系選手で初で、2人目はまだ現れていません。

身長2m29cmと、NBA史上第3位の長身から「グレイトウォール(万里の長城の意)」のあだ名で愛されたヤオは、大柄ながら優れたシュートタッチで、多彩な攻撃パターンを持つ選手でした。

今でこそ中国にはたくさんのNBAファンがおります。
このブームの火付け役となったのは、間違いなくヤオなんですね。

アジア人でもドラフト1位を獲得できる!と、多くの人に勇気を与えてくれました。

そんなヤオでしたが、キャリアの後半はケガとの戦いに苦しみました。

最初の3シーズンはチームのスター選手として活躍しましたが、残りの5シーズンでは75試合以上出場できたのは2008-2009シーズンのみで、2009-2010シーズンには全休してしまいます。

そうして2010-2011シーズンでは5試合のみプレイしたのち、慢性的な怪我の根治が難しいと判断し、現役を引退したのでした。

ダイナミックでインパクトあるセンターだったものの、怪我でキャリアを閉ざしたヤオ。
しかし彼は、今日のグローバルなNBAの礎を築いた選手として、世界中のNBAファンの記憶に、いまなおしっかり刻まれているのでした!

まとめ

いかがでしたでしょうか!

日本人選手に加え、今回はアジア系選手も紹介させていただきました。

こうした系譜って、とても大事だと思うんですよね。
瞬間ごとにNBAを楽しむことはとっても大事なんですけど、背景に何があるのかを知ることで、もっともっと愛着が湧きます。

渡邊選手や八村選手が戦う今日が、まさに明日のNBAや日本バスケを作っていると考えると、どうです?

いますぐ応援したくなりませんか!

「NBAに興味があるけどどう見ればいいいの?」「無料では見れないの?」という方は、以下の記事で詳しく解説していますので、ぜひご覧ください!

一緒に日本人選手・アジア選手を応援しませんか!